「メール」  「あーーー、また仕事中に私用メールして、いけないんだぁー」 と、景子は藤次郎の肩越しに藤次郎が持っている電子手帳の画面を覗き込んでわざ とらしく大声で言った。  「う、上杉君…」  メールに夢中になっていたため、突然の景子の声に驚いて、藤次郎は慌てて顔を 上げて視線を景子の方に向けながら、同時に電子手帳の画面を手で隠した。しかし、 景子の視線は、とうに電子手帳の画面から藤次郎の顔に向いており、藤次郎が景子 と視線が合ったときには、景子は「私、しっかり見ました」という顔でニッコリと 微笑んでいた。  藤次郎は、部下の上杉景子と泊まりがけの長期出張先に来ていた。  「また、奥さんにメールですかぁ?」 と、景子はとぼけた口調で言った。  「待機中の暇な時間に何しようと勝手じゃないか…」  藤次郎は引きつった笑いをした。向こうでは、客が藤次郎達が制作した装置を含 めたシステム全体をテストしており、現在特に問題が発生していないので、待機を していた。  「いくら新婚さんでも、こう一日に何度もメールしていたら迷惑です」  景子の言葉がトゲのように突き刺さる。  「…誰が?電子手帳や携帯(電話)は私物だから構わないじゃないか」  藤次郎は言い訳がましく訴えるような口調で言った。  「…私がです」 と、景子はふくれて見せた。  「なんで、上杉君が?」  「…そっそんな、独身女性に新婚の当てつけを見せられると、いい迷惑です。そ れに、客先主張中とはいえ、今は就業時間中です」 と、慌てて言って景子はそっぽを向いた。  藤次郎が玉珠と結婚してからというもの、後輩の景子は事あるごとに藤次郎に対 してトゲのある物言いをするようになった。以前は「萩原の太刀持ち」と社内で言 われるくらい藤次郎にくっついて歩いていた景子であったのだが…  …元々、玉珠と景子の出会い方が悪かった…  それは、藤次郎が玉珠と再会して間もない頃、当時後輩の景子が仕事で使うのに 必要な本を貸すために、退社後に景子を連れてアパートに帰った時である。  アパートに帰ると、ドアの鍵が開いていた。  「まずい…きてたか…」  と思いながら、藤次郎がドアを開けて恐る恐る中を覗き込むと、はたして、部屋 の中で玉珠が情報雑誌を読んでいた。  「お帰りなさい」  何も知らない玉珠がいつもの明るい笑顔で出迎えてくれた。その笑顔が次の瞬間 豹変することを容易に想像できた藤次郎は、  「きょっ、今日は会社の後輩を連れてきたんだ」 と、どもりながらも、必死に平静を装って言った。  「会社の人?」  「う、うん。仕事で使う本を貸すので連れてきたんだ」  「そう」  玉珠は、ちょっとつまらなそうな表情をした。  「ささ、入って…」  と藤次郎が促すと、景子は玄関に入ってきた。  「おじゃまします」 と、のぞき込むように景子が入ってきたのを見て、  「…会社の後輩…ねぇ」  玉珠の顔が引きつった。玉珠は完全に彼女と藤次郎の関係を疑っているみたいだっ た…藤次郎が紹介しようとする前に、景子は  「はじめまして、萩原さんの下で働いている上杉です。玉珠さんですね。お噂は かねがね伺っています」 と、ニッコリ笑って自己紹介をした。  先を越されたことに、藤次郎は戸惑ったが、玉珠はすかさず、  「はじめまして、橋本です。いつも藤次郎がお世話になっています」  玉珠は、わざとらしい挨拶をしてから、一瞬勝ち誇ったような表情をした。  場の雰囲気に危機感を覚えた藤次郎は、早めに用事を済ました方が良さそうだと 考え、とりあえず景子を部屋にあげて目的の本を探し始めた。  その間、藤次郎は冷たい視線が痛いほど背中に刺さるのを感じていた。  藤次郎は数冊の本を選び出すと、その後ろにちょこんと座っている景子の前に積 み上げ、  「これが、初心者向け…これが、中上級者向け…」 と、説明を始めた。藤次郎の説明に熱心に見入る景子の肩越しに玉珠の冷ややかな 視線を感じ、何度か見上げる度に玉珠の厳しい視線と目が合い、慌ててそらしてい た。  一通り、説明が終わり、景子が本を広げて読んでいる隙に  「まぁ、お茶でも…」  その場を取り繕う様に藤次郎が台所に行くと、玉珠が付いてきた。  「あんな娘、会社の後輩に居るって聞いてないわよ」 と言う玉珠の言葉に対して、「そうかぁ?」と言いかけたが、その後の玉珠の反撃 が容易に想像できたので、  「ごめん…」 と、素直に謝ることにした。  その後、さらに会社の上司に二つ年上の美人上司が居ることがばれて、藤次郎は 玉珠に首を絞められることになるのだが…  その後、なぜか玉珠は景子のことを警戒している。あれから、何度か玉珠と景子 を会わせているし、会えばよく話をしていて、結婚式にも玉珠から景子を招待して 欲しいと言われたくらい二人は仲がよかったが、仕事とはいえ、玉珠は景子が会社 で藤次郎と居るのが気に入らないらしい…どうやら、藤次郎に対しての自分の知ら ない面を知っている景子に嫉妬しているらしかった。  そんな景子との出張に、妻の玉珠は反対で、出張前に逐一状況を報告しろと藤次 郎に釘を刺していた。しかし、藤次郎は待機時間でも客先なので、声を出して通話 するわけにはいかず、私物の電子手帳を使用して、律儀にもメールで報告を入れて いた。  「おやぁ、萩原さん。新婚の奥様にメールですか?お熱いことで…早く仕事を終 わらせて帰りたいでしょ」 と、景子の発言に気づいた客にまで嫌みを言われてしまい、ただ藤次郎は苦笑いを するしかなかった。そんな藤次郎に対して、  「あんまり、おいたが過ぎると、幸子さんに報告します」 と、景子は耳打ちするように悪戯っぽく言った。  「う、上杉君…」  だが、藤次郎は気が動転してしまい、景子の言葉が冗談とも本気とも判別するこ とができずに困った表情をした。ここで出た幸子と言うのが、藤次郎と景子の上司 である。美人と評判で、玉珠は彼女のことでもやきもちを妬いていた。  「…これでいいでしょう。ご苦労様でした」  やがて、テストを一通り終えた客が安堵の言葉を漏らしたことで、藤次郎と景子 はホッとした。  「では、この報告書にサインをお願いします」  客は藤次郎が提示した書類を受け取り、署名,捺印をして、藤次郎に差し出しな がら、  「はい。これで奥さんの元に帰れますね。早く帰りたいでしょう?」 と、からかい半分で言った。  「…ははは」  藤次郎は客の発言に対し、ただ笑うしかなかった。  客先を退出し、その玄関先で藤次郎は会社に電話をした。会社にはまだ上司の幸 子が残っているはずであった。  「もしもし、技術部の萩原ですけど、宗像(幸子)さんお願いします…あっ、宗 像さん。今終わりました。今日はもう遅いので、泊まって明日の朝イチに帰社しま すが?…あっ、はい?…はい。はい、詳細は帰社してから…はい、では」  と、藤次郎は報告すると、  「それじゃぁ、上杉君引き上げよう」 と、藤次郎は機材の入ったケースを肩にかけた。  「はい」  景子はニコニコして、頷いた。  ホテルのロビーで別れ際、景子は藤次郎の持っている電子手帳をひったくるよう に奪い取ると、その場でメモりカードを差し込んで電子手帳に転送した。  藤次郎が慌てて奪い返して電子手帳を見ると、景子が入力したファイルには何か しらの暗号がかけてあり、藤次郎には解除できなかった。また、そのメールはまだ 発信こそされていないが、次に藤次郎が玉珠に対してメールを送信すると同時に発 信されるように仕掛けられていた。  「う、上杉君…」  景子はただ妖しい笑みを浮かべるだけだった。  部屋に入って、景子が転送したファイルを何とかしようとしたが、ここではその ファイルを操作できるソフトウェアとかパソコンとかがないので、すぐ諦めた。  「…どーしよう。このままメールを送信しないと、玉珠に怒られるし…」 と、独り言を言った。  「…そうだ、電子手帳が壊れたとか言って、電話でごまかせば…」 と思い直して、早速玉珠に電話をした。  「もしもし、俺だけど」  「あら…、藤次郎?どうしたの?」  「…実は、電子手帳が暴走してメールが送れなくなっんだけど…」  「……、そうなの?」  後で考えると、玉珠のこの時の沈黙の意味が何を意味していたのかが分かったが、 その時には藤次郎には分からなかった。  「嘘!」  「ウソ?」  「嘘でしょ?景子さんから電話があったもの」  その一言で、藤次郎はパニックに陥ってしまい、  「い…いや、その…」  どうごまかして良いか、困ってしまった。  「あら、いいのよ。そのメール送ってちょうだい」 と、素っ気なく言う玉珠に対して、「こいつら…つるんでいたのか…」と、ようや く納得して、それと同時に少し怒りがこみ上げてきた。  仕方なく、その場で玉珠にメールを送ったが、メールに添付されたファイルの内 容が気になって、藤次郎はろくに眠ることができなかった…  帰りの列車の車内で、藤次郎は景子に問いただしたが、景子は必死にごまかして いた…  帰社した藤次郎は出張の報告を上司の幸子にしたが、あまりにも眠そうな態度だっ たらしく、「あら…、昨日の晩は祝杯でもあげてたの?…まさかぁ、キャバレーで も行ったの?」 と、妖しい笑みを浮かべながら、嫌みを言われてしまった。  「行ってませんよ!」 と、藤次郎は真っ赤になって否定した。  仕事もそぞろに、帰宅した藤次郎が玉珠に問いただすと、玉珠はニコニコしなが ら、  「あら…たいした物じゃないのよ。あなたが出張先の行動記録だもの…」  「へっ?」  「いまの世の中は便利になったものね…だって、あなたの電子手帳があなたの居 所を全部教えてくれるもの…あなたが逐一メールをくれる度に、あなたの行動が記 録されていたのよ」  「ゲッ」  「幸子さんにお願いして、あなたの居所をチェックするソフトを手に入れてあな たの電子手帳に仕込んだの。それでね、出張先であなたがいかがわしいところに行 かないように、景子さんに見張って貰ってて、最後にその記録を送るソフトを入れ て貰って、送ってもらったのよ…」  「ゲゲッ」  「メールをしてくれなかったら、携帯に電話してその場でメールを送らせるつも りだったけど、あなたは律儀にメールしてくれたから助かるわぁ…だからぁ、これ からも、電子手帳を置いて出かけようと考えないでね」  藤次郎は、景子どころか幸子までグルになっていたのかと愕然とし、その場でへ たり込んだ…しかし後で思えば、わざわざ出張の最後の晩に景子があのソフトを入 れずに、帰社途中の電車内や会社内で入れてもいいはず…と、藤次郎は考えた。景 子がソフトを入れるのを焦ったのか、それとも、最後の晩くらい羽を伸ばさせてや りたいと考えたのかは、定かではない。 藤次郎正秀